「リーダーシップ」について話し合い、考えを深める 「未来のリーダー教室2020」Day3レポート
日産財団が早稲田大学GLS(Global Strategic Leadership)研究所とおこなっている共同研究「Society5.0(超スマート社会)を生きる世代のリーダー資質を萌芽・育成する未来のリーダー教室プロジェクト」の一環として、2021年2月、オンライン形式のセミナー「未来のリーダー教室2020」が行われました。
Day1の「アート思考に触れる」、Day2の「ビジネスにおけるイノベーション」という各テーマを経て、締めくくりDay3のテーマは「リーダーシップを考える」。セミナーの進行役もつとめてきた早稲田大学教授で早稲田大学GLS研究所メンバーの池上重輔先生が、約20名の参加者たちに、リーダーシップのあり方について「考えさせる」セミナーを展開。学校におけるリーダーシップ教育の必要性の有無をめぐる意見交換などがおこなわれました。
目次
池上重輔先生によるオリエンテーション
池上:みなさんにつぎの質問をします。「学級委員はリーダーか?」
参加者(大学職員):自分の子ども時代を振りかえると、学級委員を「やらされていた」状況もありました。リーダーの自覚をかならずしももっていたわけではありません。
参加者(公立中学の先生):リーダー素質の子もいれば、担任がリーダーに育てたいと思っている子もいます。担任の気持ちを理解してくれる子には向きあいやすいなと思います。
参加者(公立小学校の校長):リーダーとしての学級委員という像はなくなってきています。平等重視の雰囲気があり、「責任感ある子が選ばれる」という風潮は小学校ではなくなってきています。
参加者(私立中高一貫高校の先生):意見の集約などをする点で、私は学級委員はリーダーだと思います。
池上重輔(いけがみ・じゅうすけ)先生。早稲田大学小学学術院教授、博士(経営学)。ボストン・コンサルティング・グループ、MARS JAPAN、ソフトバンクECホールディングス、ニッセイ・キャピタルを経て2017年より現職。専門は経営戦略、グローバル経営。
池上:教育現場で「リーダーとはなにか」を議論することは通常ないと聞きます。日本においてリーダーは大事でしょうか。
参加者(高専の職員):リーダーは社会に必要だと思います。
参加者(公立高校の先生):学級では「サーバント」としての役割が求められ、会社では「ジャッジ」の役割が求められるなど、状況によりリーダー像は異なると思います。
池上:学校での教科などのなかに、リーダー教育は明確に組み込まれているものでしょうか。
参加者(公立高校の先生):教科にはありません。特別活動や生徒会活動で、自分の役割を見出そうと話すぐらいならあります。
参加者(私立中高一貫校の先生):私もリーダーを授業で「リーダーっていうのはね」ということを教えることはないと思います。
池上:リーダーとはなにをする人なのでしょうか。
参加者(私立中高一貫校の先生):物事を決める、方向性をつくる、責任をとる、といったことではないでしょうか。
池上先生による講義「リーダーシップを考える」
リーダー論をめぐっては、「リーダーとマネジャーは別」とするハーバード大学のジョン・コッターによる流派と、「リーダーはマネジャーに含まれる」とする経営学者ピーター・ドラッカーの流派があります。前者は、リーダーは大きな方向性を示し、マネジャーはそれを遂行していくことに重点を置くものであり、世界的には広がっている流派といえます。学級委員に期待されることが、方向性決めや意思決定よりも、ものごとの遂行だとすれば、コッターの理論では学級委員は「マネジャー」となります。
Day2までに、STEAM教育の意義とあり方、日本の方向性、サイエンスとアートの関係性、スキルや知見の身につけさせ方、プログラミング教育の扱い、失敗・成功体験のさせ方、自己承認の位置づけ方、リーダーシップのあり方と、さまざまな論点が出ました。共通するのは、「教師側がどう学んでいけばよいか」という視点です。
ここで、「ある教師」のコメントを紹介します。これは、どんな教師のコメントでしょうか。
「仕事はきつかった。お昼を食べる暇もない日が何日かあり、トイレに行けないときすらあった。というのも、提出されていない宿題を回収しようと生徒たちを探し回ったり、前夜の11時半までかかって作った教材のプリントをコピーしたりしていたからだ。(略)本当にこたえたのは、これほどがんばって仕事をしても、私が教えている子どもたちに、たいした変化をもたらせないことだった。長々とした授業計画の作成、膨大な量の採点、小まめなデータ入力など、仕事の大部分は、上から与えられた目標を達成して、いちかばちかで学校視察に合格しようとする学校側の要請によるものだった(後略)」
参加者(私立中高一貫校の先生):教師になりたての日本の人でしょうか。
池上:じつはこれは、英国のパブリックスクールにおけるキャリア10年ほどの教師のコメントです。「となりの芝生は青く見える」の実例といえます。日本の教育の問題点がよく私たち日本人の間で上がりますが、英国の教育研究者ルーシー・クレハンは『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?』という本を著しています。日本人にとっては「一方的に教えるだけの教育」が、英国人には「必要な知識をあたえるうえで不可欠のプロセス」と映ることをこの本は示します。良さ悪さは相対的ということがわかります。地域文化や時代状況といったコンテクストを未来志向で見据える必要があります。
10年ほど前の2010年に政府が出した「成長戦略」には、環境・エネエルギー、健康、アジア、観光・地域活性化などにおける2020年までの目標が記されていました。うち達成されたのは、訪日外国人2500万人などを掲げた「観光立国の推進」のみです。「食料自給率」については、「50%」の目標どころか当時より下がっています。
ゴールドマンサックスが2008年に出した、国・地域ごとの国内総生産の2000年から2050年までの予測グラフを示します。中国、欧州連合、米国、インドなどが右肩上がりを描く一方、日本はほぼ伸びていません。どう思いますか。
参加者(私立高校の先生):日本は行動経済成長期の伸びていくイメージを捨てて、現状を見ていかないと、失敗しそうです。
池上:では、より期間を長くとった、紀元から2050年までの世界の国内総生産の構成推移のグラフを見るとどうでしょう。
参加者(公立中学校の先生):日本の構成比の低さは長く続いているので、先のグラフの今後の成長の低さも致し方ないことに思えます。
池上:高度経済成長期の30〜40年が特殊だっただけであり、だんだん普通の状況に戻ってきているようにも見えます。いま企業や政治のリーダーとして意思決定をしている人たちの多くは、その「特殊な時代」に青年期を過ごしてきました。その人たちのパラダイムは、「特殊な時代」をもとにしている可能性があります。その人がどういう状況に置かれてきたか、その人の立場で考えることが大事です。
私たちの考えには「前提」があります。欧州、中国、ロシアの枠組みはこれからも続くといったように、現行の政治体制が継続されるという暗黙の「前提」があります。しかし、この前提が維持されるかはわかりません。英国が欧州連合から離脱するとは多くの人が思ってもいませんでした。資本主義体制、自由貿易体制、国際金融体制、安全保障体制などの「前提」も、子どもたちが大人になったとき維持されているかはわかりません。過去70年、これらの体制がたまたま安定的に続いただけかもしれません。テクノロジーの発達などを背景に、いまは不安定かもしています。いまの子どもたちは将来、いまとはちがう世界にいる可能性があります。
新しい学習指導要領のガイドには「子供たちの学びはどう進化するの?」と書かれてあります。指導要領に書かれていることは、どのくらい未来志向で、また根拠あるものといえるでしょうか。
海外に目を向けると、経済協力開発機構(OECD)のDeSeCo(Definition and Selection of Competencies)プロジェクトにおけるキーコンピテンシーのモデルがあります。これは、備えてほしい能力を定義したもので、「相互作用的に道具を用いる」「自律的に活動する」「異質な集団で交流する」が示されています。日本の学習指導要領に「異質な集団で交流する」といった要素は入っているでしょうか。
OECDはまた、「学習の枠組み2030」(The OECD Learning Framework 2030)を示していますが、そこにある要素が「ウェルビーイング」です。欧米圏には「幸せになるための教育」という価値観があり、OECDはウェルビーイングを形式知化しようとしています。
OECDは、どういうコンピテンシーをもつ子が幸せになるかを示した「ラーニングコンパス」も掲げています。受容する、無視する、独自につくるなど受けとめ方はさまざまありますが、こういうものを考える人がリーダーであるともいえます。集合知で決めていくための枠組みをつくるというのは、日本のリーダーに向いている役割かもしれません。
国により価値観は異なりますが、どのような価値観をどれだけ重視するかは、所得によっても影響を受けるというデータがあります。縦軸を「『想像力』を重んじる親」の割合、「『自立』を重んじる親の割合」「『勤勉』を重んじる親の割合」、横軸を所得の不平等さの程度を表すジニ係数として、各国スコアを配置した各グラフでは、それぞれに相関関係が見られます。日本は「勤勉」を重んじる度合は世界のなかではさほどでもなく、「自立」の度合は高く、「想像力」の度合は中ぐらいとなっています。
これまで話し合ってきたアートやサイエンスと関連して、「リベラルアーツ」について考えてみます。リベラルアーツとはどういったものでしょうか。大学の教養課程は不要なものであり、文部科学省も実学重視に移行しているという認識を大学やメディアはもっています。ところが、文部科学省は、その認識は勘ちがいであるとし、「社会の変化が激しく正解のない問題に主体的に取り組みながら解を見いだす力が必要な時代において、教養教育やリベラルアーツにより培われる汎用的な能力の重要性はむしろ高まっている」と述べています。大学が抱く認識とのずれからの混乱もあります。
大企業のシニアエグゼクティブの育成プログラムのなかで、受講者がリベラルアーツについてのレポートを書いています。リベラルアーツが注目される理由を、事業のグローバル化などに帰させています。この受講者は、欧州、日本、中国、台湾におけるリベラルアーツ向けの学習内容のちがいもまとめていました。こうしたシニアエグゼクティブ層に「リベラルアーツとは」と半年にわたり問いていますが、結論はばらつきます。
激変する世の中では、リーダーの位置づけと必要性は変わります。トップの人だけがリーダーシップをもてばよいのか、組織のすべての人がなんらかのリーダーシップをもつのがよいかについても、考えは分かれます。かつての安定の時代には一人のリーダーがピラミッドの頂点にいる方法がやりやすかったといえますが、現在の激変の時代においては中間層の人がリーダーシップをとったり、だれもがリーダーの要素をもったりします。上下関係でなく前後関係のポジショニングが生じるかもしれません。
学校のことでいえば、就任1年目の先生が、ある件についてはリーダーとなり、校長先生たちがその先生をフォローすることも起こりえます。自分の組織はどのようなリーダーの形がよいかを見極める必要があります。そのなかで、一人ひとりのもつリーダーシップの形式は変わってきます。
経営学者ヘンリー・ミンツバーグは、「経営における意思決定のクオリティは、アート、サイエンス、クラフトの三つのバランスで決まる」と唱えました。アートはビジョンと関係し、組織の創造性を後押しし、社会の展望を直感することを指します。サイエンスはアナリシスと関係し、体系的な分析や裏づけの重要性を指します。クラフトはエクスペリエンスと関係し、地に足のついた経験や実績を指します。この三つを一人ですべてでこなせる人はなかなかいません。アート寄りのリーダーシップはナルシスティックな形に、サイエンス寄りのリーダーシップはカリキュレーティング重視に、クラフト寄りのリーダーシップは職人気質になりやすいとされます。いずれにしても、一人で三つともバランスよくとろうとしてリーダーシップがこじんまりとしてしまうより、チームでリーダーシップを実現していけばよいのではないかとミンツバーグも考えます。自分の足りない部分はほかの人に補ってもらいながらリーダーシップを実現するというのが現在の流れです。
国によってもリーダーシップの形は異なります。「文脈」を共有しているハイコンテクストの文化圏では、言葉に出さなくても分かるという前提があり、その逆のローコンテクストの文化圏では、言葉にしないとわからないという前提があります。アングロサクソンの地域はローコンテクストの文化圏ですが、日本や中国はハイコンテクストの文化圏です。
「部下から質問されたら正しい答えをもっているべき」とする割合を国別に表したグラフがあります。日本のスコアは最高で、最低はスウェーデンでした。
世界中の国々はさまざまな指標で点数化されています。「定まっていないことがあるとどのくらい嫌であるか」を指す不確実性回避度については、日本は20か国中最高です。そのため私たちは、不確実性を回避するためにルールをつくろうとします。一方、スウェーデンの不確実性回避度は低く、シンガポールは最低でした。世界を視野に入れると、われわれの立ち位置が見えてきます。個人主義についての指標では、日本人はやや低めという程度でした。最高はタイで、米国も高い値でした。
リーダーシップには「自律型」「カリスマ的トランスフォーメーション型」「人間志向型」「チーム志向型」などの分類があります。それぞれの型がどの国で有効にはたらくか意識する必要があります。カリスマ型は中東ではあまり有効でないことや、人間志向型は北欧ではあまり有効でないことが調査でわかっています。
欧米圏の教科書に載っている「グローバル・リーダーシップに求められるもの」を整理した図を示します。最上の階層ある「システムスキル」は学べるものですが、より基本的な階層にある「マインドセット」は変わりにくいものです。「基準となる特性」の階層にある「誠実」「謙虚」「知的好奇心」「レジリエンス」は、日本人がもっているものではないでしょうか。また、「態度&適応性 グローバルマインドセット」の階層には、複雑なものを複雑なものとして認識したうえでエッセンスを引きだす力を指す「認知的複雑性」や、世界をグローバルに考えることを指す「コスモポリタニズム」の要素が含まれます。さらに、最上の「システムスキル」の階層には「変革推進」や「イノベーションの育成」などの要素があり、とくにこの二つは学ぶべきことのツートップといわれます。
講義を振り返ってのディスカッション
池上:いま紹介したような要素を、子どもたちはどこでどう身につけていくかについて、ディスカッションしたいと思います。
参加者(公立中学校の先生):「認知的複雑性」や「レジリエンス」を学校現場で身につけさせるのはむずかしいと思いました。「対人能力」は、学校現場で身につけることの気がします。
参加者(私立高校の先生):かつて家庭や地域が担っていた教育の役割が、いま学校に求められています。しかし、そうした教育を受けている教師がいなくなっているので、若手の先生にはその部分への期待度が高くなってもいます。
参加者(私立高校の校長):学校が担わなければならないという点には限界も感じます。
家庭との協力が必要であり、家庭にそのことを了解してもらおうとしています。とはいえ、グローバル・リーダーシップに求められるものして掲げられた各要素を網羅することはむずかしい気がします。
池上:最近のリーダーシップの傾向として、ありのままを出すという意味で「オーセンティックリーダーシップ」が注目されています。とはいえ、ありのままを出すには自分を磨いておかなければなりません。いかに自分を磨くかが課題となります。
リーダーシップ教育をめぐるワークショップ
池上:つぎの問いについて、みなさんはどう考えますか
Q1)小・中・高・大でリーダーシップ教育は必要か?
Q2)その場合のリーダーシップ教育はどのようなものか?
Q3)STEAM教育はそれぞれの担当科目が存在し、そこで教えればよいのか?
参加者(公立高校の先生):子どもたちにいろいろな経験をさせ、いろいろな人がいることを理解させないと、リーダーシップは生まれてこないのでは。学校行事が削られてきており、リーダーシップを発揮する場面がすくなくなっているので、意識的な「しかけ」が必要ではないでしょうか。
参加者(公立高校の先生):スマートフォンやソーシャル・ネットワーキング・サービスの普及で、対面コミュニケーション能力は低くなっている気がします。対面でのスキルをどうにか身につけさせて、リーダーシップ教育に結びつけられればと思っています。
参加者(公立中学校の先生):リーダーだけでなく、フォロアーの教育も必要な気がします。学校にはその教育がまだありません。
参加者(私立高校の先生):日本人はコラボレーションのやり方を学ぶ機会がないように思います。コミュニケーション、フォロワーシップ、リーダーシップはコラボレーションのなかで学ぶものだと思います。人それぞれ文化背景がちがうという前提にもとづき、定義の明確化などをすべきなのに、日本ではそれがおこなわれていません。人に伝えられるというのは、リーダーの条件ではないでしょうか。
池上:異文化コラボレーションの方法論は参考になります。新しい出会いにおいても、日本人は共通点を見出し距離を近づけることから始めようとしますが、欧米圏の人たちは相手との相違点を確認し、その上で共通的な定義をつくることから始める傾向があると言われています。
久村(日産財団理事長):鍛えられる機会がすくなくなっているのは気になります。ダイバーシティのすくなさが、レジリエンスの向上を阻害しているのでしょう。とかく「パワハラだ」と言われる風潮もレジリエンスがなくなる要因ではないでしょうか。
池上:ハラスメント的にならないように教えることや、身につける必要性を合理的に説明をすることなどが求められており、それらは現在の課題といえます。
参加者(幼稚園の副園長):子どもたちには、小さな失敗を重ねさせて社会に出すべきと思っています。一方で、保護者からの反応を考えて守りに入る体勢が、子どもたちをひ弱にしてもいます。保護者たちに理論的に、鍛えるための経験をさせることの重要性を伝えるのも大事と思いました。
参加者(会社員、教育ボランティア):起業家らに話を聞くと、「成功の反対は失敗ではない。失敗から成功につながることを学べるから」と言います。変化に自分らしく対応する力を身につけることは、どの分野に進む人にも必要と思います。「イノベーションを創る子を育てるには報告をさせることだ」とも聞きます。
参加者(幼稚園の副園長):リーダーになりたい人が学ぶべきことと、全人的に学ぶべきことはちがうのかどうかと考えました。学校は、「リーダーを育てよう」とリーダー育成を目的化すべきではない気がします。
参加者(私立中高一貫校の先生):大学はリーダーシップ教育をしたらよいと思いますが、小学校・中学校ではむずかしいと思います。小中学校の段階でいろいろな子がいるということを学んで、高校や大学への段階を踏むのがよいのではないでしょうか。全員にリーダーシップ教育をするというのはむずかしい気がします。
池上:リーダーになることを希望する子がいれば、養う場をあたえるということがあってよいのだと思います。図で示した「グローバル・リーダーシップに求められるもの」は、多くの人に必要な全人的要素でもあるので、欠けていたらその要素を身につけさせるという考えかたもできます。「リーダーシップをとらなければならないとき、こうするとよい」といったことは知っておくとよいでしょう。
私は、国内ではトップリーダーになる人が圧倒的にすくないという課題意識をもっています。組織全体の方向性を示し、人々をその方向に向けて動かし、最終的な責任を負う人が必要ですが、それを志向しない人、そのためにスキルを備えていない人が多いと感じています。
今回、3日間でアート、サイエンス、エンジニアリングがどのような位置関係にあり、教育現場にどう関係しそうかといった疑問を投げかけてきました。すべての人に適用できる要素もありそうだと実感しています。
セミナーの最後に参加者での記念撮影。お疲れ様でした!
クロージング後の振り返り
池上:みなさんと議論してきて、自己認識をするフェーズの重要性を感じています。自分の意識レベルがまだ低い段階では、自信につなげるため成功体験が多目がいいのかといった議論もありました。その後には、いろいろなスキルを学んでいくフェーズがあります。リーダーシップにはトップリーダーシップ以外に、組織内のみんなに必要なリーダーシップもあります。組織内の多くの人がリーダーシップを持つことは、よいチームを作ることにも関係するので、学校でもリーダーシップを教えてもよいかもしれません。
参加者(公立大学教授):自己肯定感が低い人の意識を高めるという意味でも、女性のリーダーシップ教育はより積極的におこなってもよい気がします。
池上:フォロワーシップについての議論もありました。欧米圏ではリーダーはフォロワーが育てるとも考えられており、フォロワーシップが重視されています。しかし、リーダーは、それ以外の人たちに妬まれうるものです。博士課程の学生が妬みの研究をしましたが、欧米圏では自分が妬まれていることに気づくともっと自分のことを示そうとし、日本では低姿勢になるという差異も見られました。リーダーの足を引っ張らないのもフォロワーシップといえます。
最後に、米国ジョンズ・ホプキンス大学で示された「アート」の捉え方を示します。欧米的な発想ともいえますが、そこでは「アーツ」は人が造ったものであり、「サイエンシズ」は神が創ったものという定義がされています。「アーツ」には「ヒューマニティ」の要素と「テクノロジー」の要素があり、「サイエンシズ」には「ナチュラル」と「ソーシャル」の要素があるとされています。アートとサイエンスの関係には正解はなく、それぞれの人が自分としての解釈を明確に持っておくことが必要でしょう。